工房紹介・自己紹介

2004年44歳で異業種から木彫看板師。

経験ゼロで木彫看板師を目指し今では全国の会社や学校、各宗派の寺院、国の機関などへオーダーメイドの木製看板を提供しています。

こんにちは七瀬です。1960年に岡山県倉敷市下津井田ノ浦の漁師町で産まれました。

小3から野球をはじめ朝から晩までボールを持って遊んでいました。小5で地元、子ども会のソフトーボールチームでピッチャー。その頃、身長は前から3番目・・・チビんこ。
なのに、地区の陸上競技大会(走り高跳び)で1等賞になってしまう。

ということで、中学校も野球小僧で、好きな学科は体育のみ。

高校も、野球部へ。と思って坊主にしたんですが、遊ぶのがおもしろくって、おもしろくって、夜と昼が逆転生活の必殺遊び人。

1年生のとき家庭謹慎1回、2年生、3回。3年生1回の退学一歩前のおばかチャン。
仲間のバイク事故がきっかけで普通?の生活に戻る。

いろいろあり現在独身。

その気になればできるもんですね。

経験ゼロから木彫看板師への道

実は、以前は無一文でした。

なにをやっても全くうまくいかず
崖っぷちの状態だったんです。

貯金も底をつきかけパンの耳や
ご飯に醤油をかけて食べたり
味噌を乗せ食べたり。

このままで生きていけるのか、
不安で夜も眠れない日々が続き、
精神的にもまいっていました。

そして2004年のある日、
インターネットを使い何か
仕事ができないものか?と

木製看板の彫刻師になり
インターネットを使い注文をもらう。
というアイディアを思いついたのです。

腕一本で生きていこうと、
けっこう重めの決心をしました。
やったことも無いのにです。

彫刻刀やノミなど持ったのも
小学生以来です。

周りの人たちはインターネットで
仕事の注文をもらうということが
全く理解できず、

ある人からは
「インターネットで注文を?なにそれ?」
「お前に、できるわけない!」
「そんなもんするんだったら、
パチプロになれ!」

と、罵倒されバカにされていました。

バカにされるくらいはいいのですが、
友人からは「気が狂った」「気の毒に」と、
かわいそうにすら思われていました。

わたしはそんな言葉にもあまり左右されず、
正直言って無頓着な性格で、
気にしていませんでした。

上記写真は軽トラの荷台を改造した、移動工房。初代の工房です。

2代目工房はアパートの少しのスペース。

そこへキャンプで使う、日よけターフを張り
その中で作業。夏は暑く冬は寒く季節を肌で感じていました。

3代目工房はガレージ工房。

仕事をするのは楽しいのですが、生活はまだまだ苦しく思ったほど収入を
得ていませんでした。

でもそんな時、ある2つのことを見つけたのです。

1つはインターネット関連。
もう1つは

師匠との出会い

戦前に作られた木製看板。わたしの師匠です。インターネットで購入しました。

人に教えてもらったり、聞いたりするのが
苦手なわたしは、この一枚の古い木製看板からカマボコ彫り、薬研彫り文字の塗装法などを研究し、木彫看板の製作を独学しました。

文字はどうやって塗装しているんだろう?
と思い、塗装を剥がしてみました。

文字を彫り直接色を塗っているのではなく、
なにか下地を付けていることを発見しました

その当時の材料で考えられるのは
「とのこ」と「漆」かなと想像。

なるほど、なるほど、こんなふうに彫って塗ればいいのか。

実際にやってみるのですが、なかなかうまくいきません。

いろいろ試し、試行錯誤しながら、
七瀬流にアレンジし、木彫看板製作に自信がつきました。

ついに奇跡が起こりました

起業から今現在まで、たくさんの人に
助けられ、今があります。
本当に感謝しています。

独学で得た経験と技術が、
おかげさまで今では、全国へ木彫看板を1,000台以上お届けしています。

主なお届け先は全国の会社、大学、法務省など国の機関や各仏教宗派などです。

これからも一人でも多くの方のお役にたてればと想います。

最後までお読みくださり
本当にありがとうございます。

工房七瀬の場所

あなたのお役にたてれば幸いです。
木彫看板のことなら、お気軽にご相談下さい。